ベストチョイスシンドローム

あらゆることに対して最適化を目指す最良選択症候群

主観と客観

ある人を2分法で評価する方法として主観的な人か客観的な人かという基準でみることがある。哲学、言語からみた言葉の厳密な定義はわからないが、自分の思いで行動する人は主観的で、他人の思いに対応する人は客観的であると思っている。恐らく生まれたばかりの赤ん坊は極めて主観的だろうと思う。周りに誰がいようとどこだろうと腹が減り、オムツが気持ち悪ければ泣き喚くであろう。成長とともに次第に周りの状況を理解できるようになり、客観的な振る舞いができるようになる。それでも学生のうちは、まだまだ主観的であると思われる。社会人になると客観的であることが良しとされ、上司、顧客、協力者の意に添うように行動することが求められる。なぜならお金をもらって勤めなければならないからである。学生から社会人になる時のギャップは大きいと思う。就活などで苦労するのも主観的な自分から客観的な自分へ変身することが求められるからである。昔は主観的なことが尊ばれる時代があったと思う。勤務先で自分の主張をすると「あいつはポリシーのある奴だ」といい、逆に事実や状況などの客観的な事象のみを報告する人は「つまらない奴」といった類の反応である。今でもそのような捉え方をするひとも僅かながらいるかもしれない。しかし、周囲からの圧力が大きい、つまり求人水準が低く人材が容易に置換可能な時代において、客観的に相手の意図を素早く汲んで行動ができる人が尊ばれる。勘違いしやすいのが主体的という言葉である。これは能動的に動くということで決して主観的に動くことを示しているわけではない。客観的かつ主体的に行動せよということである。さて、客観的を尊ぶと人間それではつまらないのではないかという議論がある。右から左へ伝言ゲームのように情報を伝え自ら動きながら情報収集・情報提供を繰り返す。これではロボットで人間性が無いという疑問である。私はこう思う。社会人になって客観的に行動している人も決して自らが客観になっているわけではない。自ら客観的に行動せよと自分に思い込ませているのだ。「客観的であれ。」と主観的に思い行動している。だからこそ、客観的に行動する中に自らの思いを少しずつ反映し存在価値を増しているのである。例えば起業を目指す人は主観的な自分の思いがあるはずである。上手く行くかどうかは、自分の思いを維持しつつもプラス客観的な行動を実践できるかどうかである。要は主観と客観のバランスの問題であり、客観の割合が高まるようになるトレーニングが不可欠で、客観的になっていく自分を楽しむくらいの余裕が必要である。主観的、客観的というのが影響するのは仕事だけに止まらない。敢えていえば、客観的な人はモテるが主観的な人はモテない。相手の意を汲んで行動することが身についている人は相手に好まれる。逆に自分の都合ばかり優先する人は人から好まれない。これは、混雑の中、通路を歩いているのを見るだけで何となく判る。後ろに人がいるのにマイペースで真ん中を歩いて他人に気が付かない人。2~3人で歩いていても後ろの人にすぐ気付いて道を空ける人。普段の生活でも主観的、客観的は出てくる。人の言いなりになるのは嫌だ。客観的にロボットのような行動しかできないのでは価値がない。自分の思い通りに行動する。こう考えるのは間違いではない。あなたが創造するオブジェクトが黙っていても高額で売れるアーティストであれば誰も文句は言わない。しかし、人様からお金を戴いて仕事を貰っているのであれば、このような考えの方は退場してもらうしかないだろう。

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